いままで1960年代以降の日本のロック史についてはミュージシャン当人やガイド本などで沢山語られてきました。しかしそこから漏れ落ちている、音楽雑誌や書籍にはない情報やエピソードもあるはずです。周辺にいた方々にそれぞれの日本のロック、ポップスに対する熱い思いを語っていただき補完しながら、お人柄も紹介する企画。
第2回はピアニスト、作曲家・編曲家の江草啓太さんにご登場いただきます。
我々田園メンバーとも縁が深い江草さんは、ピアニストの父を持ち、幼い頃から音楽に親しむ環境におり、音楽制作の現場にいる立場の方です。そんな江草さんがどんな日本のロックやポップスに影響を受けてきたのか、そして現在の音楽活動にその影響をどのように活かしているのか、時系列にお聞きしてみました。ぜひお楽しみください。
(左)江草啓太さん(右)松田主水
パート1:ピアニストの父・江草啓介さんのこと〜少年時代のこと
パート2:日本のロック、ポップスとの遭遇〜プロ・ミュージシャンの道へ
パート3:伊藤多喜雄さんとの出会い〜ジョン・ゾーン「コブラ」(編集中)
パート4:ミュージカルの仕事へ〜奄美、屋久島の唄、まつばんだ(編集中)
ピアニスト、作曲家・編曲家の江草啓太さん
松田:(江草さんとは)面識は、初めてだっけ。
Pippi:私は初めましてで。
高内:私は何年ぶりですかね。20年ぶりだ。
江草:(音楽家の)水野(ノブヨシ)さん繋がりで。松田さんが水野さんのバンドやめた後に多分高内くんが(ベースで加入して)。
松田:はいはい。そっか。
江草:あ、でも、(現・音楽家・ギタリストの)南澤(大介)さんが一時期ベースで、その後か。誰紹介だったんだっけ。
高内:(ドラマーの)石田くん紹介。
江草:あれ、じゃあハコバン(の仕事繋がり)で?
高内:そう。松戸のハコ。
江草:そっか、じゃあ(俺とは)会ってたの?
高内:会ってた、多分。
江草:そうか。
高内:その辺の時系列があまりよくわかんなくなってきてる、今日この頃ですよね。
松田:90年代の最初ぐらいでしょ、きっと。
高内:92年とか3とか4とかみたいな時期ですね。
江草:でも俺、学生の時だったから、90年。
松田:じゃあ、90年の頭の方。
高内:学生からやってたんだ。それがなかったら、真面目に就職してたなって。 してよかったのか、しなくてよかったのか。(笑)
Pippi:(笑)
江草:いろんな別れ道がありました。
高内:分かれ道、ありますね。
松田:私が江草さんに初めて会ったのは、学生時代。1番最初は田園ドラマーの鈴木茂樹くんから。1988年ですかね。
江草:1987年。
松田:あ、87年にメンバー募集して、 最初はドラムとかギターとかを募集してたんだけども、「Techii」っていう雑誌。
Pippi:あった!買ってた。
松田:そこに応募してきた中の1人として鈴木茂樹くんが来た。結局他のパートが見つからなくて、すいませんってお断りをしたんだけども、逆に彼の方から、今僕らがやってるグループがあるんで、ぜひベース弾いてくださいっていう話になって。
で、もう少し時間経ってから、彼の学校の学祭でしたっけね、「そこで演奏するので、松田さん、ベース弾いてください」って言われて、 わかりましたって。じゃあ今度練習やるんでここに来てくださいって。で、当時、世田谷の梅ヶ丘にあった「クレーン」っていうスタジオにベース担いで行ったらですね、で、そこに鈴木くんと一緒にいたのが江草さんという、そんな感じで。
Pippi:その時は、ピアノっていうか、キーボード。
松田:彼らは、もうね、すごい、私がそれまで交流してた音楽関係の仲間とは、段違いのレベルで(笑)。
江草:どうだったんだろうね。
松田:急にね、江草さんとか鈴木くんたちと音出したら、うわっ上手過ぎるとか思いながら、でも、あの体験で随分と底上げさせてもらった感じ。
江草:うん、でも、こっちもやっとベースちゃんと弾ける人が来たって。
松田:本当にあの時はやっとの思いでついてってる感じでした。
Pippi:自らメンバー募集をしたところが、そういうことになったんだね。
松田:そこからのお付き合いでね、 基本的には色々一緒にやってたのは学生時代なのでね、その後は江草さん、色々と活躍されてます。
水野ノブヨシ|ソングライター・編曲家。音楽ユニットRita-iotaのメンバー。
南澤大介|音楽家、ギタリスト。CD付き楽譜集「ソロ・ギターのしらべ」シリーズ著者。
石田淳|ドラマー。江草啓太と共に水野ノブヨシのバンドで活動した。
Techii|音楽之友社から発行されていた音楽雑誌。発行期間は1986年6月~1988年12月。テクノポップ、ニュー・ウェーヴなどサブカルチャー色の濃いジャンルやDTM製作を扱った。
池ノ上の頃
江草:生まれ、育ちは、東京世田谷生まれ世田谷育ち。
松田:もう、あそこのお家で
江草:いや、最初は東京世田谷区池ノ上だった。
松田:そうなんだ。へえ。
江草:池ノ上の結構狭い家で、アパートなんだけど、2部屋しかなくて、4畳半と4畳半っていう。 いや、最初は親が片方に住んでたんだけど、もう片方が空いたんで、両方借りて。
松田:じゃ、最初はお父さん、お母さんはそこに引っ越してきたっていうか。
江草:そうそう。それまで四国にいて。
松田:お父さん(江草啓介さん)は元々ご実家、広島でしたっけ。
江草:元々広島で、上下町っていう、広島県府中市のもうちょっと上の方なんですけど。
で、 そこに住んでて、高校からピアノ始めて、高校卒業して福山市っていう海沿いの町のダンスホールで弾いてたら、愛媛県松山市から「ウチのキャバレーで弾かないか」ってスカウトが来て。
で、キャバレーで弾いてたら、 今度別のキャバレーから、うちで弾いてくれって引き抜き。
当時の店はこっち(反社)の世界だから、身の危険が結構あるっていうんで、 ボディーガードが最初、移籍して何日かはついてたらしいです。
拳銃持ってて、父の頬に当てて「これがトカレフじゃあ」みたいな。
で、すごい映画みたいな話があって。ビッグフォーっていうジャズの、ジョージ川口さんとか、スリーピー松本(英彦)さんとか、の大御所4人組のコンサートがでかいホールであって、ゲストが白木秀雄さん。
クライマックスが(川口さんと白木さんの)ドラムバトル2人。
ただ、そのドラムバトルの最中に、 楽屋で組長が撃たれるっていう事件があって。
ドラムの音にまぎれてバーンってやってるっていう。
松田:なんか違う音が聞こえた(笑)。
Pippi:ドラムに紛れて。
江草:で、その日はコンサートの後に親父が弾いてた店にみんな遊びに来る予定だったんだけど、お店行って待ってたら全然来ない。
どうしたんだろうと思ったら、そういう事件があったから次の(公演地の)広島に船を貸し切って、もう行っちゃったってめっちゃ残念みたいな。そういうようなことがあった。
で、キャバレーでは、女の子だけのバンド作りたい、「誰かいない?ピアノ」って言われて、後輩の世津子さんっていたなって連絡したら、「行く」って言ってくれて、そこで一緒に仕事始めて。
そのうち付き合うようになって、結婚してっていう。(それが父と母)
松田:お母さんも。じゃあ、元々は音楽関係の。
江草:高校で音楽部だった。 ピアノ弾けるから呼び寄せて。
松田:ご両親はそういう出会いだったんだ。じゃあ、そのあと東京に。
江草:いや、その後、また引き抜きがあって。今度は香川県高松市にラジオ局が持ってるクラブがあって、 そこで演奏してほしいっていう。
松田:すごい、どんどん。
江草:そうそう、引き抜き引き抜きで。そこで弾いてたら、藤家虹二さんってジャズのクラリネットの人が親父の噂を聞きつけて来て、上京して一緒にやりませんかって言われて、「じゃあ行きます」となって、晴れて東京。2人で借りて住んだのが池ノ上。
父と
母と
松田:それが60年代の話ですよね。 お父さんはそこからいろんな仕事を始めて。
江草:バンマスは藤家虹二さんだったんだけど。藤家さんがやめちゃって、代わりに別のバンマスが色々来るんだけど、北村英治さんとか、ナベサダ(渡辺貞夫)さんとか。トップだけどんどん変わってく。バンドやりながら、今度スタジオの仕事とかもやりだして。
松田:当時、スタジオ・ミュージシャンなんてそんなにいない時代。
江草:そうそう。
Pippi:引っ張りだこになる。
江草:今だったらね、修正とか簡単にできるけど、昔はとにかく1発で弾ける人、譜面見て初見でね、そういう人が重宝されてたから。
松田:それで、あれだけ沢山のいろんな仕事をやったわけですね。もう全部はここでは話し切れないぐらいの。
江草:簡潔に言うと、当時の有名な作曲家はほとんどご一緒したって言ってた。
松田:この曲のピアノ、あの曲のオルガンも?みたいな。
Pippi:無意識に耳にしてる。
江草:そうそう。
松田:この場でぱっと浮かんだ仕事、挙げてみると。
江草:オルガンでいったら、すきすきソング。すき、すき、すきすき~(歌う)
Pippi:いいなあ。
江草:あれで、後ろでずっとオルガンを弾きまくってるのが親父です。
Pippi:私、CD持ってる。ちょっと聴いてみよう。
江草:ぜひ聴いてみてください。
Pippi:(水森)亜土ちゃん大好きだからな。
松田:まあ、そういうね、お父さんの、江草啓介さんのいろんな業績もあるわけですけど、そこ行っちゃうと話ずれちゃうので。(笑)
ジョージ川口|日本のドラム奏者。「ジャズ・ドラムスの神様」と呼ばれた。
松本英彦|日本のテナー・サックス奏者。ニックネームは「スリーピー松本」。
白木秀雄|日本のジャズ・ドラマー。
藤家虹二|広島県福山市出身の日本のジャズ・クラリネット奏者。
北村英治|ジャズ・クラリネット奏者。
渡辺貞夫|日本のジャズサクソフォーン奏者・作曲家。
すきすきソング|「ひみつのアッコちゃん」のテーマ曲。
水森亜土|日本のイラストレーター、歌手、女優、画家、作家。
目がキラキラだったので小児科の先生から「将来、目千両になる」と言われた
江草:68年生まれ。
松田:子供の頃ってどんな感じですか。どんな子供だった?
江草:・・どんな子供だったんでしょうね。
松田:まだ、それこそ就学前から、小学校とか。
江草:そうですね、肌が綺麗だったみたいで、小4の担任にタマゴちゃんって呼ばれて(笑)
松田:もうプリプリだったんですね。
江草:あと、なんだろう、将棋と野球が好きだったかな。区民館行って、将棋の、詰将棋の本借りてとか。あと、野球は水島新司の影響でマンガ、ドカベン(読んだり)。野球部とか入んなかったけど、放課後とかね、みんなでやったり。
松田:その頃は、じゃあ、もうそういう外で遊んだりっていうのが好き。
江草:でもね、やっぱりピアノはずっとやってたんで。
松田:ピアノはちなみにいくつから?
江草:4・・5歳かな。(英国のプログレ・バンド)EL&P(の来日公演)見た後。
Pippi:EL&P来日公演。Wikiで調べました。
高内:ご両親が(ピアノを)やりなさいみたいなことはなかったですか。
江草:最初はなかった。
Pippi:お部屋で常にお父様が弾いてるのはもう日常的に耳にしてた。
江草:弾いてるし、あとレコードもかけてるし。カーペンターズとかシカゴとかEL&Pかけてて。EL&P の「展覧会の絵」とか「タルカス」とか流れると、わーって走り回ってた。
松田:自然と反応してた。
江草:そうそう。なんかこの子好きそうだから、じゃあ後楽園(で行われた EL&P 来日公演に)一緒に行こうかってなった。
松田:あの伝説のコンサートを見たんですね。じゃあ、それで、自分もこんなの弾きたいみたいな感じで。
江草:そう、その後にどうやらピアノやりたいなって思ったんじゃないかな。
松田:最初は、先生についたり。
江草:そうそう、親父はほぼ独学だったんで。昔住んでた池ノ上の家の大家さんがいて、大家さんの知り合いのピアノの先生を紹介してくれて。大家さんも、なんか結構音楽好きで、林光さんと知り合いだったりとか。
クラシックの先生紹介してくださって、 それが池ノ上だった。幼稚園入る前に羽根木に引っ越したんで。そこからまた池ノ上に通うっていう(生活だった)。
松田:先生は池ノ上だから。
江草:大体、いつも、自転車で30分ぐらい(かけて通ってた)。
松田:1人で。
江草:親と。それか電車で。
松田:うんうん、なるほど。そうやって教えてもらいながら。途中で、なんかやっぱり嫌だなとか、そういうのはなかった?
江草:いや、練習はね、あんまり好きじゃなかったです。なので、いかにサボるかって感じ。
松田:でもね、そういう時期も抜けて、ずっと続けられたっていう。
江草:小学校高学年だと、ゲームが流行ったりしたから、インベーダーとか。それを耳コピして教室の片隅で弾くと、それ弾けるんだって寄ってくる友達とかいるから、そういうところでこっそり(笑)楽しんで。
松田:そういうゲームの音楽を耳コピするっていう発想が、すごいですよね。
江草:なんか今やってることとあんまり変わんない(笑)
松田:もうそこから始まってる。
Pippi:そして、お客さんが聞いて喜んでくれるっていうところがね。
江草:ていうか、(俺)実際ゲーム音楽をピアノ・ソロでカバーするアルバム(ピアコンズのシリーズ)出しちゃった。
Pippi:そうですか。
発表会
松田:で、その EL&P からピアノを弾きたいとなって、練習するようになって、やり始めて。で、実際、何かを具体的に自発的に音楽をやろうって思うきっかけというか。
江草:ピアノは習ってたけど・・
松田:そこから、自分でこういうものを作ろうとか、自分でこういうのを演奏しようとか。
江草:作ろうまでいかなかったんだけど、テレビのアニメ、特撮の主題歌をカセット・レコーダーに録音するっていうのを結構やってて。幼稚園の終わりくらいからかな、多分僕の世代結構やってると思う。全然ラインで繋ぐとか知らないから、スピーカーにラジカセ置いて、黙っててってやつ。
松田:録音したのを聞いて。
江草:ビデオもまだないからね。
松田:それを耳コピーしたりとか?
江草:そこまではいかなかったんだけど、ただ、「マジンガーZ」の音楽がすごい素晴らしくて。戦闘シーンがあるんだけど、その時によく流れてた曲があって、それが、すごい耳に残ってたんですよ。うん、なんかモヤモヤするなっていう気持ちがね。 で、大人になってサントラ買って聴いてコピーしたら、コンビネーション・オブ・ディミニッシュっていうジャズでよく使うスケールがあるんだけど、それを基本に作ってたっていうのがあって。
松田:そのスケール(コンビネーション・オブ・ディミニッシュ)に反応した。
江草:かな。この響きはなんか、独特だなと。
松田:そこで、コード感覚みたいなのも、無意識のうちに養われたみたいな、自分の好みというか。
江草:好みっていうか、うん、でも、多分モヤモヤしして、これはなんだろうっていうとこで止まってたかもしれないけど、でもすごい印象に残ってて。でも、当時のテレビ主題歌とかって、今聞いてもすごいよくできてるし、 あと、その当時の流行歌を考えたら、全然先行ってたっていう曲が結構多い。
Pippi:うん。
江草:というのを、今回インタビュー受けるんで、ちょっと調べてたら、なんか発見があって。だって、「サザエさん」が、1969年。
松田:うん。
江草:でも、当時の歌謡曲って・・
松田:まだね、演歌チックなメロディのね。
江草:ね、これはモータウン。お魚加えた(歌う)。(PCで検索しながら)「夜明けのスキャット」・・・、「人形の家」(弘田三枝子のヒット曲)は、ちょっとハイカラな感じするけど。「白いブランコ」「ブルーライト・ヨコハマ」とか、そういう時代ね。あと、「ハクション大魔王」も69年。
松田:そうなんだ。
江草:今聞くとさ、「ハクション大魔王」ってサイケ・ロックですよ。あとね、「新・オバケのQ太郎」が71年。あれ、ファンキーですよね。うん、(山本)直純先生(作編曲)、(アメリカのバンド)タワー・オブ・パワーみたいだなと思ったんですけど。タワー・オブ・パワーのファーストって70年なんですよ。
松田:もしかしたら・・・あっ、でも後ね。
江草:後、うん。でも、1年後。
松田:まさかパクるってことはないと思うけど(笑)。
江草:いや、1年だったら当時は早いと思いますよ。
松田:色々その辺のテレビ主題歌とか、そっちの方がまずは色々耳に入ってきたっていう。
江草:そうそうそう。多分ね、僕の世代、結構そうだと思う。結構シンセも入ってるしね。「マジンガーZ」もそう。あと、「魔女っ子メグちゃん」の主題歌。ミニ・ムーグがBメロでギュンギュンギュンギュン鳴ってるんですよ。
松田:そういう耳で、当時もう聞いて・・
江草:まだそうやって聞いてないんだけどね。今ね、今思うと、すごい先駆けてるな。
松田:アニメの主題歌、当時のやつ。なんか何気に随分新しいことをやってるな。
江草:ね。結構ね、ミニ・ムーグを自分で買って導入した作曲家も何人かいたみたい。
松田:60年代の終わり頃って、結構日本にもいっぱい入ってきてた頃でしょ。ミニ・ムーグとか、タンス(MoogⅢ。パッチ式の大型シンセ)とか。
江草:うん、タンスは冨田(勲)さんが初めて日本に輸入したけどね、全然税関が通してくれなかったらしい。
松田:でかい。これはなんだっていう(笑)
Pippi:でかすぎて、楽器ですって言っても、
江草:そう、信じてもらえなくて。 で、楽器だったら音出してみろって言われんだけど、冨田さんもわかんないから音出せません。じゃあ預かっておくからみたいな。ムーグ(社)に証明書を頼んでおくと、これは楽器ですと。 それでやっとなんか通してもらえたっていう。
Pippi:輸入大変、確かに見た目じゃ判断できないもんね。
ピアコンズは植松伸夫主宰のドッグイヤーレコーズから二枚のアルバムをリリース。
江草 啓太 (えぐさ けいた)
ピアニスト、作・編曲家。ステージでは朝崎郁恵、伊藤多喜雄、加藤登紀子、島田歌穂などのサポートを務め、レコーディングでは小西康陽、KERA(=ケラリーノ・サンドロヴィッチ)、植松伸夫などの作品に参加。NHK「カムカムエヴリバディ」の劇伴でもピアノを演奏した。えぐさゆうこと共に、屋久島、奄美大島等の古謡や作業唄を発掘し蘇演する試みを行う。演劇作品への関わりも多く、近年は『テラヤマキャバレー』、音楽劇『道』、『黒蜥蜴』(以上、デヴィッド・ルヴォー演出)、『9to5』『ファンタスティックス』『いまを生きる』(共に上田一豪演出)、『家族モドキ』(山田和也演出)、『VIOLET』『ラグタイム』(共に藤田俊太郎演出)などで音楽/音楽監督を、『CROSSROAD』(末永陽一演出)では編曲を担当している。