日本のロック・フォーク史においてミュージシャンのインタビューやメディアの記事からも漏れたニッチな部分に光をあてる田園Web独自連載企画「日本ロック史・外伝」。その第3回は一般の人には知られていない裏方を長く務めてこられた駒井登さんにご登場いただきます。
第1回登場の水道橋イタリアンレストラン「ラ・クッチーナ・ビバーチェ」のシェフ、中川浩行さんが企画する、元「久保田麻琴と夕焼け楽団」「サンディ&サンセッツ」のギタリスト、ケニー井上(井上憲一)さんと奥様のキャシーさんのライブで偶然同席したことがご縁でした。
現在、不動産業を営む駒井さんはかつて1970年代半ばに南正人さん、「久保田麻琴と夕焼け楽団」のマネージャーをしておられました。ロックが産業化する前、エッジのある刺激に満ちたサブカルだった時代にミュージシャンの近くにいた方ならではの様々なエピソードを覚えておられる限り語っていただきました。ぜひお楽しみください!
1973年9月21日はっぴいえんど解散コンサートが開催された文京公会堂跡前(現在、文京シビックセンター)で
パート1:少年時代のこと、映画の道を志すもふとしたきっかけで音楽業界の扉を開く、マネージャーからプロモーターへ
駒井:(松田さんたちは)僕らより10年遅れてきてる方たちだから、70年代は小学生ですよね。
松田:高校1年生が1980年なんです。ちょうど「YMO」が盛り上がってる時期でもろに波をかぶってます。
駒井:10年ぐらい遅い方たちがちょうど70年代の音楽にハマっている人たちがけっこう周りにいて、リアルタイムで経験していない分すごく熱心なんです。たぶん同じですよね。
松田:そのタイプです。
Pippi:後追いですね。
松田:ナマで経験できなかったので、実際経験した方に聞いてみたい!ということで。
僕らより10年遅れてきている方たちが70年代の音楽にすごく熱心なんです。
松田:駒井さんは何年生まれなんですか。
駒井:昭和26年(1951年)生まれです。今73才で2025年に74才になります。僕は浅草橋の生まれです。ウチの父と母が越中富山から駆け落ちして昭和25年に住みつくんです。翌年に僕が生まれて、1年後に四谷、その次に東中野に行くんです。そこに僕は18才ぐらいまでいました。その後、所沢に移る。小学校は東中野小学校、中学校は中野区立第三中学校、高校が都立鷺宮高校、大学が立教大学。
松田:衝撃だった音楽体験はありますか。
駒井:「ビートルズ」。中学の時。僕の場合、中学3年が「ビートルズ」来日の年なんですよ。僕は行ってないですけども、友だちが行っていた。「ビートルズ」がすべてだった時代ですからね。
松田:それで俺もやるぞってことで。
駒井:僕はギターを弾いてた時に日本でも「フォーク・クルセダーズ」が出てきたから、自分も、という感じで。
松田:なるほどね。
駒井:同世代の皆さん、みんなそうでしょうね、「ビートルズ」聴いて自分もやろうという。
松田:もうちょっと前だと「ベンチャーズ」とか出てきましたね。
駒井:「ベンチャーズ」も聴きましたね、テケテケテケテケって。僕の中学校の同級生が「ベンチャーズ」が弾いてた「モズライト」のギター、何十万もするようなのを買ってもらって弾いてましたよ。
松田:みんなが貸してくれよって(笑)
駒井:僕は高校の時にバンドを組んで文化祭にも出てました。「ビートルズ」や「ローリング・ストーンズ」をコピーしてました。一緒にバンドやってた大塚っていうやつが武蔵野美術大学に入るんだけども、音楽が忘れれらなかったみたいで、僕がレコード会社にいる時代にデモテープが送られてきて聴くんです。2024年に50年ぶりに同窓会で会いましたよ。「フォーク・クルセダーズ」みたいな3人バンドで、ベースやってたやつが180cmあって、もう一人の大塚っていうやつは170cmあって、僕は小柄だからはしだのりひこみたいな感じ。大塚はサウスポーでギターを弾いて、いい男だったからお昼休みに練習してるとファンの下級生たちが集まってきてファンクラブが出来たぐらい(笑)。
都立鷺宮高校は中野区。都立家政駅が最寄り。「四人囃子」のメンバーがいたことで有名なんです。
松田:森園さんとか岡井さん。
駒井:そうそう。彼らのほうがちょっと若い。
僕はね、大学の時、登録団体を作って映画を撮ろうと思ってたんですね。ちょうど1970年の安保闘争の年で大学紛争がたくさんあった。東大総長の蓮実(重彦)さんが立教で映画表現の授業をやるんです。僕はその第一期生なんです。彼の授業は映画を撮ってくると優をくれる(笑)。そこで習った方たちがその後有名な映画監督が出てますよ。蓮実さんの弟子。
お父さんが東宝のプロデューサーだった知り合いがいたんです。豊島園にある彼女の家に遊びに行った時に、サントリーホワイトを飲まされて(笑)、きみは将来何の道に進むんだと聞くので、映画の道にと答えたんだけど、その頃は映画が衰退してましたからね。お父さんが映画はやめたほうがいいよって言うから、はい、やめます!って(笑)。映画続けてたら違った人生になってたと思います。でも逆に映画をやったことによって、音楽の連中と知り合うことになる。で、レコード会社に入ることになったわけですから。
Pippi:映像を志していたけれど、気が付いたら音楽のほうに。
映画続けてたら違った人生になってたと思います。でも逆に映画をやったことによって、音楽の連中と知り合うことになるんです。
駒井:井上憲一の音楽とどこで出会ったんですか。
松田:私は80年代に「YMO」が好きで細野(晴臣)さんや(高橋)幸宏さんが「YENレーベル」を立ち上げた時に「サンディ&サンセッツ」というのが所属していて、そのメンバーとして認識したのが最初です。
駒井:なるほどね。結局、細野くんたちも含めて全員がサブカルなんですよ。たまたま売れちゃってるんですけれども、サブカルの立場にいたんですよ。まったく売れてなかったし。
先日(2024年12月)に「HOBO’S CONCERTS」っていうのが50年ぶりに開催されたんですけど、これが僕の歴史そのものなんです。(コンサートのパンフレットを開きながら)ここから説明するのが一番いいかなと持ってきたんです。元々1974年に1年間開催されたんですけど、そこに出演してたアーティストたちが、僕が出会ってずっと一緒にやってた方たちなんです。
Pippi:エンケン(遠藤賢司)、友部正人さん・・
駒井:エンケン、友部くんもそう。僕のよく知っている高田渡も含めて、かしぶち(哲郎)くんや和田(博巳)くんと遊んでいたんですよ。ですから「HOBO’S CONCERTS」はほとんど見てます。大蔵博(火呂死)というプロデューサーが「ベルウッド・レコード」にいたんですが、彼が「HOBO’S CONCERTS」を始めた。(「ベルウッド・レコード」というのは三浦光紀さんがキングレコードで立ち上げたレーベル)・・・大蔵博は坂本龍一が所属していた事務所(ヨロシタミュージック)の社長でした。当時、2階建ての「シアター・グリーン」っていう。
Pippi:池袋の。お寺が裏にある。
駒井:シアターグリーン通りっていう名前があるぐらい。お店の方にライブをやりたいと話をつけて1974年の1年間やった。それから、三浦さんが「ベルウッド・レコード」のアーティストや社員を連れて日本フォノグラムに移って「ニュー・モーニング」っていうレーベルを作るんです。僕は大蔵に誘われて「ニュー・モーニング」の社員になるんです。
元々、大蔵とどうやって出会ったかというところから話をしたほうがいいと思うんですけれども。当時、僕は立教大学の大学祭の実行委員になるんです。
立教大学は細野さんや「はちみつぱい」のメンバーなど出身者がいて「OPUS」っていう音楽団体に在籍している方も多かった。それで、僕は大学祭の前後夜祭の実行委員の責任者になるんです。そこから音楽関係の方と知り合うようになった。
僕が立教祭をやった時に吉田拓郎さんを呼んで「立教タッカーホール」でコンサートを開催した。企画した佐藤くんという人がいたグループが「ミュージック・プランニング」っていう団体だった。元々早稲田大学にあった団体の立教大学版です。早稲田の「ミュージック・プランニング」(「ユイ音楽工房」の前身と思われる)を作ったのはその後「フォーライフ・レコード」を立ち上げる後藤由多加さんです。僕らの同世代の人が吉田拓郎のマネージャーをやったりしてました。で、その吉田拓郎のステージのバックでスライドを流すんです。僕はその頃映画団体をやってましたから、そのスライドを撮影したことで「ミュージック・プランニング」の方たちと仲良しになるんです。
当時、催行するための教室がほしい人は実行委員会が主催する合宿に参加しなければならなかった。僕の映画の登録団体は部室もないので合宿に行こうとなって、その時に実行委員になったんだけど、同じ部屋にいた人たちがさっき話した「ミュージック・プランニング」だった。彼らは立教祭でライブやりたいからホールを借りたい、そこで実行委員である僕が仲良しになった。そこから音楽の方に向かうんです。
松田:そこが起点なんですね。
駒井:その後、京都の高石ともやさんの事務所に行ってライブをやりたいとオファーにいったりした。ちょうどその頃、大阪の「春一番コンサート」や中津川の「フォーク・ジャンボリー」にも行って主催者の方たちとも知り合うことになった。
HOBO'S CONCERTS 2024パンフレットより「田舎芝居」メンバーの久保田さちおさんコメント。「74年当時は南正人さんのマネージャーをされていた駒井登さんのお世話になり…宿泊はその方の実家の所沢の元旅館か料亭?のようなところに転がり込んで寝かせて頂いておりました。」
遠藤賢司:日本のシンガーソングライター・ミュージシャン。自称「純音楽家」。
友部正人:日本のフォークシンガー、詩人。
高田渡:日本のフォークシンガー。
かしぶち哲郎:日本の男性音楽家。はちみつぱい、ムーンライダーズのドラマー、ボーカル。
和田博巳:新宿のジャズ喫茶「DIG」に勤務後、高円寺にジャズ喫茶「ムーヴィン」をオープン。1972年、ロックバンド「はちみつぱい」にベーシストとして参加
サンディ&サンセッツ:1979年から 1990年代まで活動していた日本のバンド。
HOBO’S CONCERTS:1974年シアターグリーンにて1年間を通じて毎月1週間という連続した日程で開催されたコンサート。
大蔵博(火呂死):キングレコードの宣伝スタッフを経てヨロシタミュージックでYMO、矢野顕子のマネージメント担当、MIDI INC.設立。
ベルウッド・レコード:キングレコード系列のレコード会社、および同社が展開するレーベルである。
三浦光紀:日本の音楽プロデューサー、実業家。徳間ジャパンコミュニケーションズ専務取締役などを務めた。
ヨロシタミュージック:大蔵博が設立した音楽事務所。YMO、矢野顕子らが所属。
シアター・グリーン:東京都豊島区南池袋二丁目20番4号にある小劇場。
ニュー・モーニング:日本フォノグラム傘下のロック専門レーベル
OPUS:立教大学の公認バンドサークル。
立教タッカーホール:立教大学の講堂。
ユイ音楽工房:吉田拓郎、かぐや姫、長渕剛、中原めいこ、BOØWYなどのアーティストが所属していた音楽事務所。1971年に早稲田大学在学中の後藤由多加が設立
フォーライフ・レコード:1975年から2001年まで存在した日本のレコード会社。
後藤由多加:日本の実業家。1975年、井上陽水、泉谷しげる、小室等、吉田拓郎らと共にフォーライフ・レコードを設立。
高石ともや:日本のフォークシンガー。代表作は「受験生ブルース」。
春一番コンサート:1971年から、福岡風太、阿部登らが中心になって、関西を中心としたミュージシャンを集めて、大阪の天王寺公園野外音楽堂で5月のゴールデンウィークに開催した大規模な野外コンサート。
中津川フォーク・ジャンボリー:日本初の野外フェスティバルである。岐阜県恵那郡坂下町(現在の中津川市)にある椛の湖(はなのこ)の湖畔にて、1969年から1971年にかけて3回開催された。
駒井:で、どういうわけか岡本おさみさんというニッポン放送のディレクターで吉田拓郎の作詞をしている人と知り合いになった。彼は南正人が大好きだってことでライブをやってほしいという話があり、ライブを企画することになった。南正人は「ベルウッド・レコード」でレコードを出すので、プロモーションツアーを行うことになった。南を応援する岡本さんに南を紹介されて、レコーディングしていた八王子の民家にもよく顔を出していた。
その後、小澤音楽事務所に入るんですけど、そこの寺本幸司さんっていう人がロック専門の部門、「モス・ファミリィ」を作って、僕はスタッフになるんです。南、りりィ、桑名正博の「ファニー・カンパニー」がいました。りりィが大ヒットさせた「わたしは泣いています」の次のレコードの中にバックコーラスで入ってますよ。寺本さんは浅川マキを作った人なんです。寺本さんは本を書いてるけど、そこで南のことにも触れています。
それで、南のレコードの宣伝もすることになって、その流れで三浦さんの新しいレーベル、「ニュー・モーニング」の社員になるんです。
南正人と知り合ったことでその後、中山ラビさん、カルメン・マキなどいろんな方と知り合うことになるんです。
・・先ほど話した「HOBO’S CONCERTS」でも南正人と「シュガー・ベイブ」が一緒にライブやってたり、その頃は同じサブカルの枠の中でみんな仲良しだった。南のレコーディングを八王子の民家でやってた時も松任谷くんがユーミンを連れてきたり。松任谷くんがホットパンツ姿の彼女を、僕が今東芝でレコードを作っている人だと紹介してくれた。レコーディングにはパーカッションの浜口茂外也もいたけれど、元々はパーカッションが斉藤ノブでギターが井上憲一で南のバックを務めていた。だから斉藤ノブのことはよく知っている。
松田:ノブさん、今や有名になってますものね。
駒井:今ではみんな有名になってますけど、まだ無名な時代に一緒に遊んだ仲間です。
Pippi:宝石の原石がここにすべて集まってる。「HOBO’S CONCERTS」は月間に一週間連続でライブがある。
駒井:元々「シアター・グリーン」は芝居小屋なのを、オーナーに借りて開催した。ちょうど今年(2024年)で50周年なんですよ。今回の50周年コンサートは当時出演していた人たちがメインで出ている。あがた森魚くん、中川五郎とか。僕すっかり忘れていたことなんですけど、出演者の一人であるタイロン橋本が、パンフレットで僕のことを触れてくれてますけど、細野くんに橋本のことを紹介したらしいんですよ。
松田:へええ。橋本さんって「YMO」のファーストアルバム収録曲「SIMOON」で歌ってますよね。
Pippi:パンフレットにも書いてある。
駒井:彼はニッポン放送のコンテストで優勝するんですよ。彼も南のことが好きで集まってきた一人なんですね。橋本は僕がずっと面倒見てましたから、再会したら一瞬のうちに50年前の気持ちに戻れる。あと、もう一組、50周年ライブで僕の名前を言ったらしいんだけど、パンフレットにも書いてくれてる「田舎芝居」というグループ。僕の記憶にも残ってないんだけど、我が家によく遊びにきたらしいです(笑)。
Pippi:けっこう親密な(笑)時代があったんですね。
駒井:そうそう。久保田さちおくんっていう。名前も覚えてないくらい。僕は自分の知ってることは覚えてるけど、それ以外のことは忘れてる。当時は関西の子たちがみんな東京にくる時は泊まるところがなくて、ウチにもいろいろなやつが泊りにきましたよ。
松田:駒井さんは当時どちらにお住まいだったんですか。
駒井:当時は新所沢ってところに住んでました。駅からも近かったんで皆さんは遊びに来やすかった。
Pippi:関東に来たら駒井さんを頼れってことだったんでしょうね。
駒井:「ベルウッド・レコード」も関係してたし。その後の「ニュー・モーニング」では西岡恭蔵さんが出したレコードのツアーを二人だけで周ったんです東北を。ラジオ局の深夜放送番組を周ってた時にもTBSラジオのトイレで、きみはどこの人かねって声をかけてくる人がいて、レコード会社の者だって答えたんですけど、それが泉谷しげるだったりとか。レコード会社の深夜放送担当ですから、いつも終電ですよ。武蔵境で終電車を降りて、いつもタクシーで所沢まで帰ってました。そういう時代でした。
高石ともやさんの事務所に行ったときに事務所社長の榊原詩朗さんという方と知り合いになったんですけれども、彼は赤坂のホテルニュージャパンの火事で亡くなってしまうんです。事務所と繋がりのあった永六輔さんとも仲良しになった。「中津川フォーク・ジャンボリー」は名古屋労音の人たちが中心になって企画していたんだけれども、イベントが無くなってしまった。その名古屋労音の人たちに高石さんや僕も参加して野球大会をやったりしてましたね。ホームランを打ちましたよ。その後打ち上げで闇鍋をやるんですけれども、週刊誌にその時の写真が掲載されました。
岡本おさみ:日本の作詞家。
小澤音楽事務所:日本の歌謡曲アーティストを中心とした芸能事務所。
寺本幸司:日本の音楽プロデューサー。浅川マキ、桑名正博、りりィ、イルカ、南正人、下田逸郎など手がける。
モス・ファミリィ:小澤音楽事務所内のロック部門。
りりィ:日本のシンガーソングライター・女優。
ファニー・カンパニー:横井康和が桑名正博と出会い、1971年に関西で結成したロックバンド。
浅川マキ:日本の歌手、作詞(詩)家、作曲家、編曲家。
中山ラビ:日本の女性シンガーソングライター。
カルメン・マキ:歌手、ロックミュージシャン。
浜口茂外也:日本のパーカッション奏者。
斉藤ノブ:日本のパーカッション奏者。
あがた森魚:日本のフォークシンガー、シンガーソングライター、映画監督、俳優、エッセイスト。
タイロン橋本:シンガーソングライター、作詞家、作曲家、編曲家、演奏者、ボイストレーナー、音楽プロデューサー。
田舎芝居:'70年代に久保田幸生を中心に結成された、ウェスト・コースト風ロック・バンド。
西岡恭蔵:日本のミュージシャン、シンガーソングライター、作詞家、作曲家。愛称は「ゾウさん」。
榊原詩朗:高石ともや&ザ・ナターシャー・セブンのマネージャー・プロデューサー
赤坂のホテルニュージャパンの火事:1982年(昭和57年)2月8日午前3時20分頃に東京都千代田区永田町2丁目のホテルニュージャパンで発生した火災。犠牲者の中には榊原詩朗がいた。
名古屋労音:勤労者音楽協議会。勤労者のための音楽鑑賞組織で、1949年(昭和24年)大阪で発足。
僕すっかり忘れていたことなんですけど、HOBO'S CONCERTS 2024出演者の一人であるタイロン橋本が、パンフレットで僕のことを触れてくれてますけど、細野くんに橋本のことを紹介したらしいんですよ。
駒井:その頃、南のマネージャーを務めていたわけですけど、たくさん売れていないミュージシャンが周りに集まってきた。そこに久保田麻琴も入ってきた。最終的に僕が麻琴のマネージャーをやるんですが、そこに至るまでにビクターやソニーから声がかかって彼の争奪戦があった。
松田:その頃から麻琴さんは話題の人だったんですか。
駒井:そうです。彼のアメリカナイズされた部分を評価する方たちがいた。・・・ある時ビクターから、ウチで面白いバンドがレコーディングしてるからぜひ見に来てくださいと話があった。それがデビューする前の「サザン・オールスターズ」だった。他にもソニーなどから話があったけれど、最終的に久保田麻琴はトリオ・レコードに行くんです(1974年)。そこでレコードを出すことになり(アルバム「サンセット・ギャング」)、ウチでマネージメントすることになった。
大蔵博と僕とナカムラくんというフジテレビの子の3人で将来、事務所を作ろうという話があったので六本木の秀和レジデンスに部屋を借りていた。ほとんど僕が使っていて、最終的には僕の事務所になるんですけれども。周囲にはトリオ・レコード、フォノグラム・レコード、キティ・レコードがあった。キティにはよく遊びに行って代表の多賀(英典)さんたちとも仲良くなった。そんな風に音楽にベッタリな時代があったんです。・・・その後、1976年にアメリカ独立200周年祭を八王子のサマーランドでオールナイトでライブをやるんです。それをやって僕は日本の音楽と別れるんです。
多賀英典:日本の音楽プロデューサー、映画プロデューサー、キティ・レコードやキティ・フィルムをグループ会社としてもつキティ・グループの創業者。
その後、呼び屋(海外アーティスト招聘プロモーター)の「トムズ・キャビン」に入るんです。そこでエリック・アンダースンから始めて、「ストラングラーズ」まで呼んだ。
松田:1976年に「トムズ・キャビン」に入社されたんですか。
駒井:1976年の夏にライブをやって秋。
松田:「トムズ・キャビン」はその頃は小さな・・・
駒井:ウドー、キョードーがあって、ずっと下のほうの超弱小でした。僕は日本のミュージシャンのマネージメントしていたので、日本中のイベンターを知っているということで、(社長の)麻田浩さんに入れてもらい、日本中のイベンターに外タレを売るわけです。でも有名人じゃないので売れないんですね。
松田:全国レベルでいったら、まだまだ・・・
駒井:めちゃくちゃマイナーですね。唯一初期で儲かったのはトム・ウェイツぐらい。でも僕らが呼ぶのはミュージシャンズ・ミュージシャンな方たちなので、日本の有名なミュージシャンがいっぱいライブを見に来るわけですよ、忌野清志郎とか。ミュージシャンとの繋がりはあったけれども、一般客は全然少なかった。オーティス・クレイってご存知ですか。
松田:ブルース系の人ですよね。
駒井:ソウルの人ですけれども、元々O.V.ライトという有名なソウル・ミュージシャンを呼ぶはずが、病気になってピンチヒッターで彼が来日した。虎ノ門ホールで300人ぐらいしか入らないわけですよ。でもそのライブ・レコードがめちゃめちゃヒットして再来日することになった。とにかく売れないメジャーじゃないアーティストばかり呼んでいた。ジャクソン・ブラウンは麻田さんの友だちなのに、キョードーに取られて呼べなかった。当時、オーストラリア・ツアーの後にお忍びでジャクソンとデヴィッド・リンドレーとで日本に来た時に、リンドレーの誕生会を(埼玉県入間市の稲荷山公園にある)麻田さんの家でやった。麻田さんの家まで車でジャクソン・ブラウンとデヴィッド・リンドレーを乗せて(笑)。それでジャクソンがリンドレーのためにハッピー・バースデイを歌うんですよ。上手かったですよ(笑)。
松田:すごいなあ。目の前で聴いたわけですね。
駒井:そうです。エルヴィス・コステロもウチが初めて呼んでますし、「トーキング・ヘッズ」もウチですから。
「トーキング・ヘッズ」、最高なんですよ。昔の日本青年館でやったんですよ。いいアーティストたくさんやりましたし、カントリーからブルースからブルーグラスから。
松田:「トムズ・キャビン」にはいつまでいらっしゃったんですか。
駒井:「ラテン・パーカッション」っていうのが最後でした。ヤマハがヤマハUSAの社長を日本に呼んで、コンガとかティンバレスなどのメーカーの日本総代理店になった。
Pippi:あっ、「LP」っていうブランドの。私それカスタネットで持ってる。
駒井:そうそう。「ラテン・パーカッション」の超有名なおじさんたちを呼んで日本中のヤマハ各支店でライブをやってから、ヤマハでワークショップをやったのが僕の「トムズ・キャビン」の最後の仕事。「トムズ・キャビン」では1か月に半月ぐらい日本をずっと周ってましたね。
松田:すごく忙しかったんですね。
駒井:すごく忙しくて、いろんなアーティストと周ってました。
エリック・アンダースン:アメリカのフォークミュージックのシンガーソングライター
ストラングラーズ:イングランド出身のロックバンド。 1970年代のパンク・ムーヴメントから台頭したグループの一つ。
麻田浩:1965年にモダン・フォーク・カルテット(マイク真木も参加)の一員としてアメリカに渡り、現地の音楽を生で体感。トムス・キャビンという呼び屋を立ち上げ、自分が観たい!と思う、最先端のミュージシャンを招聘。
トム・ウェイツ:アメリカ合衆国カリフォルニア州ポモナ出身のシンガーソングライター、俳優。
オーティス・クレイ:米国のソウル・シンガー。
O.V.ライト:米国のソウル・シンガー。
デヴィッド・リンドレー:米国のミュージシャン、シンガー。ギターを始め、ワイゼンボーン、バイオリン、バンジョー、マンドリン、ジュンブシュ、サズなど、様々な弦楽器を操る。
駒井:・・・ともかく、音楽では金が出ていくばっかりでね。麻琴もバンドメンバーにお給料を払っていましたからね、仕事が全然ないのに。僕も呼び屋の仮払いでお金をもらってるような状態でメシが食えないんで、東京・昭島の東中神というところに「かぼっちょ」っていう音楽喫茶を作っで嫁さんに任せていた。ALTEKのA7スピーカーでアナログレコードをかけて音楽を聴きながらコーヒーを飲む。ウチの店は全部手作りで3人分ぐらいのカウンターにブランコがあって、ほとんどの人がブランコに座りたがるんですよ。
当時、毎日新聞の多摩版に紹介されました。お店の裏が米軍ハウスだったんですね、立川基地。イラストレーターの八木康夫くんはウチのすぐそばに住んでたから常連で毎日店に来てました。細野くんのレコード(「トロピカル・ダンディ」)のジャケットイラストを書いた人。
松田:・・・晩年は山中湖に住んでらした。
駒井:でも亡くなった。・・・立川基地の周りにあった米軍ハウスに住んでた人たちやベトナム戦争から帰還した恩給で仕事していないアメリカ人のおじいさんが毎日アメリカン・ミュージックを聴きに毎日来てましたね。お店は木造だったんでよく響く。山形県寒河江市のダムに水没した築250年の農家の太い梁をもらってきて椅子やテーブルやカウンターにした。最高に贅沢なお店だった。お店は5~6年やってましたが、子どもが出来たんで止めました。70年代後半です。
大学時代の友だちが長野の霧ヶ峰で山小屋を作る人のお手伝いをしていて、僕も遊びに行ってた時にそこで嫁さんと出会うんです。ジャコビニ彗星が来る年(1979年)で、東京では見えないので長野なら見えるかもしれないってことで。結局、長野でも見えなかったんですけど。ユーミンの歌でもジャコビニ彗星が出てきます(1979年のアルバム「悲しいほどお天気」収録「ジャコビニ彗星の日」)。それで、ウチの別荘が信州にあったんで、麻琴たちも合宿をしたんだけど、一番合宿したのは「銀河鉄道」っていうグループ。大蔵がマネージメント担当だったんで、売ろうって言って才能があっていいグループだったんですよ。それこそウチの別荘が我が家のように感じるって彼らは言ってくれてたし。「夕焼け楽団」は「ハワイ・チャンプルー」のレコーディング前にウチの別荘で合宿していた。昔のLPにウチの別荘が出てくるんです。スペシャルサンクス、みゆき山荘って。
エリック・アンダースン:アメリカのフォークミュージックのシンガーソングライター
ストラングラーズ:イングランド出身のロックバンド。 1970年代のパンク・ムーヴメントから台頭したグループの一つ。
ALTECのA7スピーカー:「Voice of the Theatre」と言う呼び名で劇場用の大型スピーカーシステム。
八木康夫:イラストレーター。70年代より数々のレコードジャケット等々のデザインを手がける。
銀河鉄道:1970年代の4人組高校生フォークロックバンド。 メンバーは本田修二・佐藤信彦・牧良夫・鈴木大治郎。 文化放送主催のバンドコンテストで全国優勝し、1975年に日本フォノグラム(現ユニバーサル・ミュージック)からアルバム『銀河鉄道』リリース。
駒井登さん プロフィール
1951年3月 東京浅草生まれ。立教大学在学時、学園祭実行委員を務めたことで音楽業界と接触。その後日本フォノグラム入社。以降、小澤音楽事務所からモスファミリーを経て、南正人のマネージャーに就任。セブンゴッドミュージック設立、久保田麻琴と夕焼け楽団、kibooなどのマネージメントを担当。その後オフィスかぼっちょ、昭島・東中神かぼっちょ経営。1976年にアメリカ生誕200周年記念 八王子サマーランド野外フェス開催。同年にトムズ・キャビン入社。音楽業界から退いた後はパンセコーポレーションを経て、現在は株式会社原田不動産代表取締役。