日本のロック・フォーク史においてミュージシャンのインタビューやメディアの記事からも漏れたニッチな部分に光をあてる田園Web独自連載企画「日本ロック史・外伝」。その第3回は一般の人には知られていない裏方を長く務めてこられた駒井登さんにご登場いただきます。
第1回登場の水道橋イタリアンレストラン「ラ・クッチーナ・ビバーチェ」のシェフ、中川浩行さんが企画する、元「久保田麻琴と夕焼け楽団」「サンディ&サンセッツ」のギタリスト、ケニー井上(井上憲一)さんと奥様のキャシーさんのライブで偶然同席したことがご縁でした。
現在、不動産業を営む駒井さんはかつて1970年代半ばに南正人さん、「久保田麻琴と夕焼け楽団」のマネージャーをしておられました。ロックが産業化する前、エッジのある刺激に満ちたサブカルだった時代にミュージシャンの近くにいた方ならではの様々なエピソードを覚えておられる限り語っていただきました。PART2最終回は、しばらく離れていた音楽関係の仲間との再会から現在、そして今後まで。ぜひお楽しみください!
1973年9月21日はっぴいえんど解散コンサートが開催された文京公会堂跡前(現在、文京シビックセンター)で
パート1:少年時代のこと、映画の道を志すもふとしたきっかけで音楽業界の扉を開く、マネージャーからプロモーターへ
パート2:再び、音楽の世界に、井上憲一との再会、石川浩司との交流を経て、これからのこと
その後、駒井さんはヤマハの仕事をした後、学習塾業界で店舗展開、宣伝を経て、現在まで不動産業に従事して、音楽から離れていたが、再び音楽に携わることになる。
駒井:2024年に井上憲一くんと40年ぶりに再会した。それは2024年に麻琴から電話があって、代官山で麻琴とピーター・バラカンたち3人でトークショーをやるからと招待されて行ったんですよ。その時に麻琴からケンちゃん(井上憲一)の電話番号を聞いて久し振りに連絡を取って、ケンちゃんのライブを見に行ったんです。
それとは別に、僕は2008年から毎年2月タイに行ってるんです。
松田:それは旅行として。
駒井:旅行なんですが、石川浩司っていう人が毎年2月に1か月間タイにいるんですよ。
松田、Pippi:「たま」の。
駒井:石川浩司と2007年に会うんですよ。それはモガなど昭和のことが大好きな淺井カヨさんっていう女性と2006年頃に知り合うんです。元々は「トムズ・キャビン」にいた女性がアメリカのミュージシャンと仲良しになって、レコードを作りたいという話を偶々お手伝いするわけです。そのミュージシャンが来日してライブをやった後、大阪でレコーディングするんです、マイナーレーベルで。古い(レトロな)音楽性なので彼女がmixiで情報を探してた時に出会ったのが淺井カヨさんなんです。
松田:淺井カヨさんはどのような方なんですか。
駒井:ネットですぐ出てきますよ。淺井カヨさんと出会ったことによって、2007年12月に彼女の知り合いだった石川浩司と出会うわけです。
Pippi:(検索して)淺井カヨさん、見たことあります。
駒井:けっこうテレビにも出てますよ。で、石川浩司と出会って2008年2月から2020年までタイに行っています。コロナでストップしてましたが、2023年から再開して2025年もタイに行ってます。だから、僕は今、石川浩司の周りの方たちと知り合いなんです。
松田:そうなんですね。
駒井:この間、「ホルモン鉄道」っていう石川浩司のユニットで吉祥寺の「MANDARA2」でライブをやったんですが、共演した「すずめのティアーズ」っていうバンドが、めちゃめちゃ感激してレコードも買ったんですけども、「ミュージック・マガジン」のジャンル別ランキングで米津玄師を抜いて1位になってました。めちゃくちゃ面白い。2人グループで。
石川浩司は空缶コレクターで3万個持ってるんだけど、空缶博物館を群馬県四万温泉に作ろうとしてますよ。観光協会の事務局長さんと話をしました。
Pippi:実現に向けて。
駒井:石川浩司と出会ったのも、空缶博物館を作らせるためじゃないかと思うくらい。
松田:今、新しい出会いというか拡がりが出てきて。
駒井:そう。今の拡がりは南正人がタイのチェンダオでライブを始めてずっと10年以上やってたことが始まりです。彼が亡くなる前の2020年に彼に会ってるんです。その翌年に彼は亡くなっちゃうんですけれども。南が作ったライブにケンちゃんにぜひとも出てもらいたいと思って声をかけた。僕が飛行機代、ホテル代全部持ちますよって言って。2025年2月10日から25日まで行くんです。
松田:そうなんですね。
駒井:それも全部繋がってる。この間はケンちゃんのライブにも行って。
松田:井ノ浦さんもドラム叩いてる。「夕焼け楽団」から「サンセッツ」のドラマーでした。
駒井:Sandiiも出ましたからね。何曲も歌って、めちゃくちゃ良かった。
「HYDE PARK MUSIC FESTIVAL」が2005、2006年以来復活して開催されたんです。
駒井:・・・川村さんっていう女の子がいるんですけど。
松田:川村恭子さんですか。お会いしたことはないですけど、(連載第1回登場の)中川さん経由で知ってます。
駒井:そうそう。彼女も関わって2024年埼玉県入間市の稲荷山公園で「HYDE PARK MUSIC FESTIVAL」が2005、2006年以来復活して開催されたんです。
松田:第1回は行きました、細野さん見たさに。
駒井:ああ、そうですか。大雨でしたでしょ。
松田:とんでもない大雨で。
駒井:谷のところだったから水浸しになっちゃって。
Pippi:自衛隊の基地・・・
駒井:元々米軍基地があったところなんです。
松田:あの近所に細野さんが昔住んでて、通称ホソノハウス。
駒井:あそこでソロアルバムを作ったやつです。小坂忠さんもいたし、麻田浩さんもいたし、僕の友だちもずっと住んでたんで、みんな知り合いなわけなんです。
今あることは僕が決めたんじゃなくて、流されてきただけなんです。
Pippi:駒井さんはすごく柔軟性があるというか、フットワークが軽い。
駒井:いや、今あることは僕が決めたんじゃなくて、流されてきただけなんです。流れに乗ったというより誰かに引っ張られた感じがずっとあって、今があるので。僕がやりたかったことじゃないところにいるんです。だけど昔には戻れないし。
松田:でも、結果オーライで、いい出会いもあるしね。
駒井:音楽業界でたくさん苦労したことが全部今に活きてくるんです。トム・ウェイツを呼んだ時に、彼、舞台でタバコを吸うんです。日本のホールって消防法がすごく厳しい。演出をするって話して、なんとか通してもらってやったとかね。あと、八王子のサマーランドで1976年に2日間、野外コンサートをやった時も、ケンタッキーフライドチキンにも話をつけて出店してもらったり。オールナイトなので、サマーランド商店会長にも挨拶して花火代も寄付して、住民にも事前に告知していたのに、うるさいって、福生警察署に12時間拘束されました。やめろやめないで。東京都環境局が測定して夜は無くなっちゃったわけです。オールナイトなのに意味無いじゃないですか。今では当たり前にやってることが全然出来ない時代に始めたんです。
Pippi:パイオニアだね。
松田:切り開いたんですね。
駒井:そういう思い出はいっぱいあります。
Pippi:駒井さんみたいな方がいるから世の中回ってるんだなって思う。
駒井:いや、でも逆に言うと僕は何も作ってないですよ。お世話するだけ。
松田:でも、そういう人がいないと成り立たないですから。ミュージシャンもマネージメントしてくれる人がいてこそですよ。
駒井:若い時はマネージメントなんて何もわからなかった。お世話係でしかないから。「ザ・スクエア」っていうバンドがいますけど、彼らも食えない時代だったから、ユーミンの事務所に行ってユーミンのバックバンドをやった年があるんです(1979年「オリーヴ」ツアー)。麻田さんがユーミンの事務所の社長と仲良かったから。いつもユーミンの事務所から援助してもらったものですから、僕が行ってユーミンのバックにとお願いする役割を担っていました。その時「ザ・スクエア」の運転手してた人がその後「オリジナル・ラブ」のマネージャーやってヒットしてビル建ててましたね。
・・・音楽の仕事してた頃はずっとマイナーでサブカルだった。メジャーには一度もなれなかった、つまり大金持ちにはなれなかった。でも一番面白かった。
松田:メジャーにはなりたいとはみんな思ってたんですかね。
駒井:思ってました、みなさん。自分の音楽が売れたほうがいいと思ってた。でも逆に今でも音楽やってるってことがすごいですよね。立教大学の関係であがた森魚と一緒にやってた「はちみつぱい」はよく知ってるんです。2023年に「ベルウッド・レコード」50周年記念コンサートを中野サンプラザでやったんですよ。仕事があって行けなかったんで、いとうたかおが名古屋でライブやったのを見にいきました。僕にとっては青春の思い出でしかなかったんだけども、ずっと付いて回ってる。
佐野元春は同じ立教大学出身で1976年のサマーランドのイベントの時、僕は免許持ってなかったんで運転手をやってもらってた。当時は佐藤奈々子のサポートやってるデビュー前の時代。2005年の「HYDE PARK MUSIC FESTIVAL」に佐野が出演した時、駒井さんに会いたいって麻田さんには話してたらしいけど、ずっとバックステージにいたので会えなかった。
松田:また再会できるといいですね。
駒井:佐野は今や超有名人になってますからね。立教時代の交流といえば、同級生が大貫憲章ですから。彼は広告研究会で、大学内でよく会ってました。あと、卒業生である西岸良平に企画したライブのポスターを書いてもらったりしましたね。
みんなの何者でもない時代を見てるのが僕の財産なんです。ケンちゃんが東洋大学にいた時、学園紛争で卒論もいらない時代だった。我が家に来てもらって彼のレポートをいっぱい書く手伝いをした(笑)。ケンちゃんが大学卒業出来たのは僕のおかげだと思いますっていまだに話してます(笑)。でも、今思えば大学なんて関係なかったねって、この間本人には言ったんだけど。
松田:麻琴さん、井上憲一さん関連でお聞きしたかったのが、当時吉祥寺に「OZ」っていう伝説のライブハウスがありましたよね。
駒井:南や麻琴も入ってるレコード(OZ DAYS ’72-73)が出てますね。「裸のラリーズ」。手塚実くんっていう人がお店やってました。彼は福生の人なんですよ。吉祥寺駅前の再開発だかでライブハウスが無くなっちゃうんですね。その後、平野悠くんが西荻窪で「ロフト」を始める。最初は千歳烏山から始まったと思います。ライブハウスということであれば、南は当時浦和にあったライブハウス「曼陀羅」に出演するんです。それで「曼陀羅」の人と知り合いになるんです。浦和店は火事で閉めちゃって、吉祥寺に「曼陀羅」を出すんです。
松田:「曼陀羅」って元々浦和にあったんですね。
駒井:そうです。その後、吉祥寺の「曼陀羅」に南やケンちゃんが出演するようになるんです。南のバックで演奏してたケンちゃんが歌うコーナーが出来たのも「曼陀羅」で始めたことなんです。
麻琴は今ではプロデューサーやってるけど、元々ミュージシャンだからね。
松田:麻琴さん、いい歌聴かせてくれる方なんですけど、もっと歌ってほしいですよね。
駒井:「HOBO’S CONCERTS」に出演してるkiiboっていうやつがすごくいい音楽やってて、元々南の周辺にいたやつなんですけど、大蔵に話してライブに出演させたんです。ポリドールでレコード出すんですけど、僕、彼のレコード持ってたんだけど、八木康夫に貸したまま、いまだに戻ってこないです(笑)。あいつ死んじゃってるし。結局全然売れなくてCDにもなってないんで、LPじゃないと聴けないです。今聴いてもいい曲なんですよ。ミュージシャンで若くして亡くなってる方も多い。団塊の世代。南はちょっと上だけど、エンケン(遠藤賢司)なんかは他にこんな人いないもん。
Pippi:エンケンは一時期めちゃめちゃ観に行ってました(笑)
駒井:長谷川きよしや浅川マキは仲間だった。あと、亀渕友香さんも南の麻雀仲間だった。南が作った「横須賀ブルース」は長谷川きよしが歌ってヒットした。浅川マキを見出した寺本さんは今でもトークショーで彼女のことを話してるみたいです。
Pippi:化学反応がすごい。
駒井:いろんなことが起こって。岡本おさみさんと知り合ったことで南に出会えたり、さらに広がっていったことは財産です。当時の日本で「ティン・パン・アレー」にも負けないような音楽をやってたんだけど、いい音楽といい人格は別だから。1976年に日本の音楽から手を引いて外タレに向かうわけです。
当時はせいぜい「ロフト」ぐらいしかない、ライブハウスが全然ない時代に、学園祭などもギャラは安くて全然リターンもない。生きられる道がなかった。「フォークロア・センター」がライブハウスだった時代ですから。とにかくいろんなことがあるわけです、僕の人生。ミュージシャンのお世話は大変だったけど、たまたま出会っただけで、僕は何もやってないです。
Pippi:商売になる、ならないではなくて、全国から音楽に対して情熱を持ってる人達が出てきたことで、今の潤沢な音楽環境が出来上がってるんですね。
駒井:当時は野外ライブなんてなくて、「中津川フォーク・ジャンボリー」なんて珍しかった。あと「春一番コンサート」。レコードも出たしね。今はみんながやりたい音楽をやれてるのはいいことです。
ザ・スクエア:日本のインストゥルメンタルバンド。 1988年までTHE SQUARE名義で活動。
オリジナル・ラブ:日本の音楽ユニット。1985年結成。1991年にメジャー・デビュー。結成当初4人、メジャー・デビュー時は5人のバンドだったが1995年以降、田島貴男のソロユニットとして活動。
はちみつぱい:1970年代に活動した日本のロックバンド。はっぴいえんどと共に、日本語ロックの先駆者として知られる。
いとうたかお:日本のシンガーソングライター。名古屋を拠点に活動中。
佐藤奈々子:歌手・写真家。
大貫憲章:日本の音楽評論家、ディスクジョッキー。立教大学卒業。
西岸良平:日本の漫画家。代表作は『三丁目の夕日』、『鎌倉ものがたり』など。
吉祥寺OZ:1972年、吉祥寺にオープンしたライブハウス。1年3ヵ月という短い期間しか存在しなかったものの、ミュージシャンのみならず、個性的な人々が集う特別な場所となった。
裸のラリーズ:ヴォーカル、ギターの水谷孝を中心に、1960年代から1990年代にかけて活躍した、日本のバンド。
手塚実:吉祥寺のライブハウス「OZ」(72年6月開店)の店長。裸のラリーズのマネージャー。
平野悠:「株式会社ロフトプロジェクト」代表取締役。ロフトの創設者。
曼陀羅:1974年創業、吉祥寺のライブハウス。MANDARA2、南青山マンダラなど系列店もある。
kiibo(Keebow):シンガーソングライター。2014年、木澤嘉春名義で再デビュー。
長谷川きよし:日本のシンガーソングライター、ギタリスト。
亀渕友香:日本のゴスペル歌手、ボイストレーナー、女優。3学年上の兄はニッポン放送の名物DJで後に同社社長・相談役を歴任した亀渕昭信。
フォークロア・センター:両国フォークロアセンター。1970年から、ライブ、企画イベントを通じ国内外のフォーク、ブルースをはじめとするルーツ・ミュージックを紹介してきたスペース。
すべての出会いは一期一会だけども運命であり、必然だと思うんです。
駒井:大学時代から現在に至るまで、それぞれの仕事において関わった人たちが、みんなずっと繋がってるんですよね。
松田:繋がりがあるんですね。
Pippi:血管の大動脈じゃないけれど。
駒井:これらすべて一期一会だけども運命であり、必然だと思うんです。今回お二人に合うことによって何かが起きるかもしれない。
松田:そうですね。
駒井:今もまた新しい出会いがあることによって何かが拡がっていくかもしれない。
Pippi:守りの姿勢に入らないところが駒井さんのすごいところだと思います。
駒井:僕は絶対Noと言わない。Noと言ったらそこで終わりじゃないですか。Yesで始まるわけですよ。
松田:今後の駒井さんの予定をお聞かせください。
駒井:井上憲一とタイに行くこと。「シャンバラ祭り」っていうんですけど、出てもらいます。うまくいけば次以降、自費で行ってもらいたい。みなさんにもぜひ行ってもらいたい。それと本業の不動産業、あとは石川浩司の空缶博物館を実現させること。一銭にもなりませんけどね(笑)でも、お金にならなくても、インバウンドの人にも見てもらえるかもしれないからね。
シャンバラ祭り(駒井登さん撮影)
僕は何者でもないんです、と仰る駒井さんは、導かれるようにして人と繋がり、人をサポートする役割を果たしてきた。話を聞きながら、駒井さんのような人がいなければ、日本のロックもずいぶん形が違っていたかもしれないと思わせるものだった。そして常に自ら道を閉ざすことなく、現役で動き続ける姿勢は熱い。
南正人 / 回帰線 (1971)
ザ・ディランⅡ / きのうの思い出に別れをつげるんだもの (1972)
はちみつぱい / センチメンタル通り (1973)
西岡恭蔵 / ろっかばいまいべいびい (1975)
久保田麻琴と夕焼け楽団 / ハワイ・チャンプルー (1975)
大滝詠一 / A LONG VACATION (1981)
山下達郎 / 僕の中の少年 (1988)
西岡恭蔵 / Farewell Song (1997)
駒井登さん プロフィール
1951年3月 東京浅草生まれ。立教大学在学時、学園祭実行委員を務めたことで音楽業界と接触。その後日本フォノグラム入社。以降、小澤音楽事務所からモスファミリーを経て、南正人のマネージャーに就任。セブンゴッドミュージック設立、久保田麻琴と夕焼け楽団、kibooなどのマネージメントを担当。その後オフィスかぼっちょ、昭島・東中神かぼっちょ経営。1976年にアメリカ生誕200周年記念 八王子サマーランド野外フェス開催。同年にトムズ・キャビン入社。音楽業界から退いた後はパンセコーポレーションを経て、現在は株式会社原田不動産代表取締役。